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なることなすことが後ろめたく感じるって良くないね

 

人の顔色伺うのやめたいのに染み付いて辞めれない。

 

反応良くないって感じた瞬間、やらなきゃよかった、言わなきゃ良かった理由が一気に頭の中をよぎる。それ以上に前向きな理由でそのことを言ったり、やったりしたはずなのに。

 

思考回路がフリーズして、その理由にたどり着く回線がわからなくなってしまう。

 

あーあ。

 

辞めれないことたーくさん。やめたいわけじゃなくて、他にやらなきゃいけないこと、やっておいた方が良さそうなことがいっぱいあるってことなのだけど。 

 

だからこそ辞めれないし、辞めれない理由が浮かび上がってしまう。いざ辞めてもきっと大した影響ないのに。

 

高3の12月を思い出して頑張ろう。

 

やっと行動する気力が湧いて来たからもっと頑張って生きるんだ。

うつになんかなりたくない。マイナス思考の回路を作らないように前向きに頑張るんだ。

 

一生治らない精神病になんてなりたくない。一生治らないって知ったとき、ネガティブに考える習慣がついてそういうのになるリスクを高めてしまうより、無駄にポジティブに考えて楽しくする工夫をしようって決めたんだ。

 

感情に振り回されない。感情に打ち勝つ。

感情なんて大事な人にだけ見せればいいんだ。

 

 

無題

 

頭の中に浮かぶものをひたすらに綴ったら何か見つかるかしら。

 

 

今日は先輩に曲作りをどのようにやっているか聴いた。

 

表現することが苦手な自分にとって、歌詞とか文章とかで頭の中を覗かれること程恐ろしいものはない。

 

 

先輩も最初はオリジナル曲を演奏するとき、自分の頭の中を覗かれてる気分だったそうだ。

 

でも他の人からの評価を気にしなくなったら平気になったらしい。

 

歌詞から作るときもあるし、曲から作るときもあるそうだ。

 

曲から作るときは音にあう言葉を選ぶらしい。

 

 

振り返れば、モノヅクリとかアウトプット系のことをほとんどしたことがない気がする。

 

 

したことがあるのは図工の時間くらいだ。自発的にやったことといえば、音楽とか料理とか何かのコピーだ。

 

あなたの趣味はなんですか?と聞かれたら、音楽を聴くこと、読書、料理、食べ歩き、ゲーム、ベース、旅行と答えるだろう。

 

そこにアウトプットは無くて、パッケージされたものが多い。

 

インプット、インプット、インプット

 

 

自分で自由に何かを表現できたらたのしいんだろうなあ。自発的に何かに打ち込めるのが羨ましいなあ。ただやってないだけなんだろうけど。

 

 

時間の流れは恐ろしいね。何かしよう、何かしようで時間が終わる。

 

振り返ってみて1番自分のことが好きになれた時期は高校3年生の12月だろう。ご飯、睡眠、風呂などの時間以外は全て勉強に費やした。毎日毎日ひたすらに自分と戦った。

 

 

辛さもあったけど、それ以上に自分が決めたことを周りの目を気にせずにやり通せたことがなによりも嬉しかった。(私の高校は大学へ進学する人が少なかったため、好奇な目で見られたのだ。)

 

 

毎年この時期になると思い出す。眠気との戦いがものすごくしんどかったけど、挫折を感じたけど、自分の能力が昨日よりも上がっていく感覚、同じ時間を過ごしてるようで、同じ時間ではなき不思議な感覚、良い意味で毎日に溶かされそうだった。

 

 

美化されているのだろうけど、思い出すと心地よさすら感じる。

 

ときどき猛烈にあの感覚に浸りたくなる。

 

 

だからきっと何かしたくなるんだろう。

やりたいことが多くて、興味が分散して、その分何もかもが煩わしくなる。雑音に感じてしまう。

 

 

最近何かに没頭したのはスプラトゥーンくらいだ…ゲーマーの性が悲しい。

 

最長で15時間やっていたのだから最早才能を感じる、と考えたくなる…

 

というか、3ヶ月(300時間)やり続けても飽きないスプラトゥーン凄すぎる。さすが名作。

 

 

スプラトゥーンだけやって年をとるのは避けたいなあと思うのだけど、これも一種の個性なのかなあ。

 

それとも、消費者を楽しませる仕掛けがある分、楽しいのは当たり前だから無駄な時間でしかないのかなあ。

 

インプットの趣味を行うなら、映画観賞、読書とかの方が役に立つよなあ。

 

今日も今日とて悩ましい。悩むなら進みたい。何かしよう。何かを決めよう。

 

 

でもどうすれば?

正しさ

 

普通ってなんだろう?くだらないね?

 

私もそう思える程の強さがあれば良かったのだけど。

 

中学まではそうだった。自分の考えのまま行動すればいい。私は私だもの。

 

きっといろんなことを器用にこなせる自分にある程度の自信があったのだろう。

 

でも気がついた。いつかはわからないけども、自分にとっての正しさが必ずしも良い結果にならないということに。時には自分も周りの人も不幸になるということに。

 

高校からは周りに気を使うようになったよ。空気に合わせて、合わせて、笑って、ああ虚しい。

 

結果的に、表面上は明るくていつも笑顔で友達も多い子だったんだと思う。

 

卒業して、今でも連絡取り合うような友達全然いないけどな。

 

周りに合わせて気を使うのは自分にとって苦痛なことだった。どこが面白いのかわからないような話にうける〜って言ってみたり、笑ってみたり、難しかった。きっと顔も引きつってたかも。上手くできなかった。

 

大学ではそんな苦痛を感じる必要はなかった。自分が所属したいグループに所属できて、合わなかったら距離を置くことができた。

 

まさに理想的な環境だ。

 

本当に大学に進学するという選択をして良かったと思う。そう心から言えるほど楽しい日々を送れたと思う。

 

でも、楽しいはずなのにこんなにも不安を感じているのはなんでだろう。自由な環境のはずなのに正しさばっかり求めてしまうのはなんでだろう。動き出せないのはなんでだろう。

 

楽しい日々ももう終わってしまう。その現実を受け入れることができない。憂鬱だ。久しぶりに今日はそんな憂鬱をダイレクトに感じてしまった。久々に、全部全部終わらせてしまいたいと感じた。

 

あー、上手くできないな。なーんにもしたくない。きちんとしてるの食事だけだなあ。笑

 

ツイッターにすら上手く愚痴を書くことができなくなってしまった。この憂鬱をどこに吐き出して良いかわからない。人に話すと絶対になんであんなこと言ってしまったんだろうって後悔する。この状況すごくまずい気がする。鬱に引き寄せられている自分が怖い。いつかそっちに行ってしまうような気がしてる。どうしてこうも気が小さいのだろうか。何をしても罪悪感というか、劣等感というか、間違ったことをしているような恐ろしさを感じる。私はいつだって普通になりたい。きっと理想に近い普通なんだろうけど。

 

 

今置かれている状況は幸せだ。自由な時間、緩い環境、日々困ることなく暮らせるということは幸せだ。でも、小さい悩みは私にだってある。どうしようもない憂鬱を感じるときだってある。でも、他に大きな悩みを抱えた人にそんなこと言えるわけない。恵まれた環境じゃないかって言われるに決まってる。

 

そう、恵まれた環境だよ。でもどうしようもなく動き出せなくてしんどい。何もしたくない。どうすればいいの。

 

明日も予定がある。ああ幸せだね?

 

いつだって動き出せなくて時間が足りなくて今日もこんな時間だ。

 

やっぱりここまで文章にしてみて自分は甘いっていうことが身に染みた。きっとこの環境にいる間は誰にだってこんな話できないし、しないだろう。

 

やらなきゃばっかりでうんざりするけどやらなきゃだね。

 

あーもう嫌だなあ。

 

普通に過ごしたいね?

 

 

かにみそ

 

自分にあった小説を読み終わった後の、脳の奥が痺れるような感覚がたまらない。

かにみそはまさにそんな痺れを自分にもたらした。

 

 

 

気怠げ、無気力、灰色

 

目の前がわからないような毎日に溶かされそうな気分だったんだろうな

 

途中から気づくひどく重たい罪悪感と他者の日常の幸せ、人と人とのつながり

 

主人公の心情になんだか共感してしまった

 

気がつけないんだよね、他者の心情が。

他者の心情を想像しようとしても、できなくて飽きてしまうんだよね。本当は大事にしたいのに

 

蟹と出会ったことで、灰色の毎日が色づくようになって、日々の楽しみが生まれたんだろう

 

ほんの少しの好奇心で蟹に人間を食べさせてしまった。そのときの罪悪感はなかった。蟹が喜んでいる、それで満足だったしそこで完結したかのように思えた。

 

まさか蟹が人間を食べるなんて非日常に他者が気づくはずなんてない。自分が罪を犯していることがばれるなんてない。愉快だ、ときっとこの時までは思っていたのだろう。

 

でも、気がついてしまった。蟹が人を食べるその先のこと。1人の人間がいなくなったことによって、その人の家族や友人などがひどく悲しんだり、憎んだり、絶望すること。心が空っぽになってしまうこと。

 

自分にとって蟹は大切な存在になってしまった。共に過ごす時間が楽しくて、落ち着いて、心の隙間が埋まるかのように感じただろう。でも蟹は、他者の主人公でいう蟹のようなかけがえのない存在を壊している。1人を殺したことによって、他の何人もの人を絶望の淵に追い込んでいる。その人にとって、たった1人の心許せる存在だったかもしれないのに自分が、蟹が、全部全部踏みにじっている。

 

このままじゃいけない。どうすればいい?どうすればいい?主人公はひどく葛藤したのだろう。もう答えは出ていたけれど気が付きたくなかっただろう。蟹を殺すということに。

 

無気力な色のない毎日で、未来というよりも明日にすら希望がもてないもどかしい日常を送っていたのだろうと考えられる主人公に、彩りを与えてくれたのは蟹だった。蟹もまたそう思ってくれている。そして、友人だと言ってくれている。人の言うことなんて信じられるものじゃない。でも、蟹のいうことはいつも賢かったし、正直な言葉だった。そんな蟹が自分を大切に思ってくれていることがとても嬉しかった。でももう、蟹と過ごす時間を終わらせなければならない。他者の幸せを壊した罪を償わなければならない。

 

蟹とはもう一緒にいれない。

 

決意が固まったとともに、蟹を食べたくなった。きっと蟹も、そんな罪悪感に塗れた主人公の心情を察したのだろう。蟹もまた決意が固まった。死を受け入れた。

 

蟹の食欲は本能から来るもので、我慢できる代物ではなかった。関係ない人がいなくなったって蟹に害はない。食物連鎖という自然の理に則ったまでだ。

 

人とのつながりに気がついてしまった主人公は、罪悪感に苛まれているが故に、精神的に限界が来ていた。もうきっと終わりだと、察したのだろう。だからこそ、蟹自身を食べようとしている主人公を受け入れた。蟹はいつだって正しかった。

 

かけがえのなかった蟹はいなくなった。ひどく美味しいと感じた。悲しいような苦しいようないろんなものがごちゃまぜになった感覚に陥った。

 

蟹との時間が終わった。

 

蟹は日々の充実やつながることの喜びなど、生きる糧、生命力を主人公に与えたのだろう。蟹を失った代わりに灰色の日々から抜け出そうとする思いを手に入れることができたのだろう。

 

 

10月11日の追記

 

動き出さなければ。

 

 

最後にこう記したのだけど、その日からか次の日からか、早く寝るようになったし、足のマッサージ、顔のマッサージ、筋トレも1週間くらいだけど続けることができて、少し変われたよ。

 

課題に手をつけられないまま今日を迎えてしまったわけだけど、少し動き出せたよ。

 

このまま少しずついい方に、いい方にいきたいね。大丈夫。

無題

 

私は日記とかブログとか残るもので自分の考えを残すのが苦手だ。

 

理由は単純で、人に自分の考えを知られたくないから。

 

このブログも、もしも自分が突然死んでしまって、遺品として大勢の他者に見られたらどうしようとか考えながら書いている。

 

いつからなんだろうな。思い出せやしない。読書感想文も読まれたくない。レポートとか勉強メインの、自分の感情を書かないものならいいのだけれど。むしろどちらかというと、得意な方だったのだけれど。

 

読まれる可能性が少ないこのブログでさえ、自分の考えを残すことに対して躊躇している。

 

自分の考えに自信がないのか、他者からの視線を気にしてしまうのか、信用できないのか、それぞれの要素がきっと絡み合っているんだろう。

 

 

小学校まで私は「他人の目」が気にならないタイプだったのだと思う。見えていなかったというか。部活を始めて、嫌だなと思う人とも一緒の時間を過ごさなければならなくなっていって、逃げ場なんてだんだんと無くなっていって。部活をしていたことに後悔はしていないけれど、本当は部活は嫌だったのかもしれない。追い詰められる環境が怖かった。幸い、スポーツはできる方だったからなんとか乗り越えられた。けれども、小学校と中学校でやっていた部活にいい思い出はあまり無い。正直、ヒトが嫌だった。あの頃はやることはきっちりやる、やるということが当たり前という自分だったからサボるということが理解できなかったし、顧問が可哀想だと思っていた。そして、部員たちを軽蔑していたのだと思う。そんな中でも一人ぼっちは嫌で、何とか仲間を探そうとしていた。

 

 

周りの目線が気にならなかった頃、友達と休日に遊ばないの?と親から言われるようになり、初めはそれを疑問に感じていた。遊ぶということがよくわからなかった。きっと今でもあまりわかっていない。一緒に帰ったり行動したりする友達はいたから、友達と遊ばないの?と言われても気にならなかった。部活を始めて、思春期が始まって、人間関係に派閥が生まれてきた頃から休日に友達と遊ばないの?という言葉がどんどんプレッシャーになってきた。予定をつくらなければ、友達と行動しなければ、友達を増やさなければ。昔からわりと何でもそつなくできたというプライドの高さ故に、友達が少ない自分を認めたくなくて、親から馬鹿にされたくなくて、だんだんと休日の予定を作ろうと躍起になっていった。そして、他人からの目線が日に日に気になるようになっていった。友達作りが苦しくなった。

 

孤独だった。

 

悪口を言う子も、強気なあの子にもユーモアというものが備わっていて、友達とはしゃいでいて楽しそうだった。

私は話すのが上手くない。気が強いのも嫌いじゃない人を貶すのも苦手だった。

 

おとなしいあの子もオタク気質なあの子も、静かながらに楽しんでいた。

私はもっとはしゃぎたかった。退屈だった。

 

仲良くなりたい気持ちがあっても上手く楽しいを作れなかった。どんどんどんどん下手になったような気さえした。

 

昔は何でもそつなくこなせた。だから、きっと、できる。そう思っていたけれど、どうすればいいかわからなくて、考えれば考えるほど苦しくて情けなくて消えたくなった。そのうち苦しさから解放されたくて、気にしないように、気にしないようにと思うようにしても、友達の多い姉はしょっちゅう遊びに出かけていたし、親には出かけないの?と聞かれるし、休日に予定のない自分がコンプレックスだった。それは今でも変わらない。変われない。

 

きっと真面目だったのだと思う。でも、この孤独をどうすることもできない。性格が悪いのかツマラナイ人間なのか、大きく考えて原因はそれしか思い当たらない。自己否定が癖になっていく。いろんなことが許せなくなっていく。いろいろな思い通りにならないことが嫌いになっていく。こじれていく。

 

私は1人の時間は嫌いじゃない。むしろ好きなんだと思う。でも、こんな風に考えてしまうから純粋に楽しめない。頭の片隅で、今頃あの子は友達と遊んでいる、楽しんでいるという考えがよぎる。だからこそ心から1人の時間を楽しんでいたり、有意義に使っている人を尊敬しているし羨ましいとも思う。私は未だにどっちにも染まれない。

 

こんなこじれた考えなんて、そろそろ捨ててしまいたい。一人暮らしをして、親からの目線とか姉の予定も気にならなくなったはずなのに。サークルの飲み会とか旅行とかバイトで忙しくて、休み欲しいとか思ったくらいなのに。なんで未だにこの呪縛から逃れられないのだろうか。苦しい。

 

先日のUVERのライブでtkyが、皆孤独なんだよ。俺だって一人ぼっちで曲作って孤独だよ。みたいな話をしていて、心底ほっとした。そっか孤独なんだ。孤独でいいんだ、って。星野源も己との戦いをずっとしてて、みんなが手を差し伸べてくれていたとわかるけど寂しかった。というような文章を残していてほっとした。そうか、あのキラキラしている人も寂しさがあるのかって。

 

今私は何かを夢中になって頑張れていることはないけれど、寂しさとか孤独に苛まれることがあっても戦える強さをいい加減に身につけたいんだ。1人を怖がりたくないんだ。堂々としていたいんだ。

 

だからこそ自分のことをもっと好きになりたいし、周りのことを好きになりたい。大事にしたい。まずは自分のことを許せるようになりたい。孤独な自分も上手くできない自分もまるごと全部、味方になってあげれるようになりたい。

 

考えをまとめるためにも、許せるようになるためにもブログをたまに書こうと思う。

 

今日は星野源がもっと好きになった日だから、私も彼みたいにキラキラするために、いろんなことに挑戦して楽しんで、孤独とだって戦うんだ。

 

 

2ヶ月あいてる

 

やりたいこととやらなきゃいけないことのバランスなんてとっくに崩壊してる。

2ヶ月の夏休みは予定がたくさんあって、念願のライブに行ったり、旅行に行ったり、好きな人と過ごしたりすることができて充実した。特に9月はバイトもしてないし、卒論に割いた時間も少ない。遊びまくってたといえる毎日を送ったんだと思う。

 

思い返せば、高校まで田舎にいたから自分が思い描く自由なんて手に入らなかった。音楽と旅行と食べることが好きなわけなのだけど、ベースを背中に背負っているだけで目立つような場所だし、スタジオなんてありもせず、音楽仲間を作れるコミュニティも高校生には見つけることができなかった。そして、好きなバンドのライブは近くて車で片道1時間かかる場所でしか行われなかったし、1時間に一本あるかないかの公共交通なんか使えやしない。バイト禁止、外泊禁止の中で自分の力だけでライブに行くことなんか出来なかった。フェス?行けるわけない。同じバンドが好きな友達がいたことが救いだったけど、その友達との予定合わせにも毎回苦労した。せっかく予定合わせて、チケットもとったのにドタキャン決められたときのことはショックで忘れられない。嫌いにはなれないしむしろその子のことは今でも好きなのだけど。

とにかく、そんな状況だったから家でひたすら音楽を聴き、密かにベースを練習し、ライブDVDを見る毎日だったわけだ。それ以上の広がりはなかった。 

そして旅行。前述した通りバイト禁止だったため限られたお小遣いしかなかった。高い交通費をその中で出せるわけもなく、隣県までしか自分の力で行ったことはなかった。家族旅行も数年に1回だったな。大学生になって、こんなにも旅行に行っているのは、なかなか行くことができなかった状況ということが1つの原因な気がする。行けなかったというより、行こうという考えがないほど不可能だったもの。トーキョーに気軽に行くことができるってあの頃は信じられないだろうなあ。大学生までトーキョーに行ったことなんて、修学旅行の乗り換えくらいだったもんなあ。何回行ったかわからないあの場所ですら、大きな旅行という感じだったからなあ。別の場所に行けないっていう点で、交通が限られている田舎は閉鎖的って感じるんだよな。

食べることが好きということに関して。

母の手料理は好きだったし、数え切れない程行った某ファミレスの料理を選ぶのも飽きなかった。自分で手作りするのも好きだった。でもね、幅が全然広がらないんだよね。新しい料理に出会えないもの。今は食べ歩きしまくっている。大学生活ではあの頃じゃ考えられない程のいろんな店に行ったんじゃないかな。あまり好きじゃなかったラーメン屋も、いろんな種類、美味しい店があると知って好きになった。カフェなんてほとんど行ったことはなかったけど、そこそこ行けるようになった。大学生になって美味しいものを食べたときの感覚を知れた気がする。(ああ、あのトマトソースもう一度食べたい…)脳みそが喜んでる感じとか噛んだ瞬間の風味と唾液が溢れてくる感じ、あの衝撃は凄まじい。高校まで出会えてなかったな、うん。友達が少なかったからご飯に行く回数も少なかった。そんで、数少ない友達と食べに行くってなってもだいたい某ファミレスになったなあ。開拓するって行為をしてこなかったから、入店して注文して会計をするっていう一連の流れもよくわからなかった気がする。1人でご飯を食べに行くって出来なかったと思う。今でも少し緊張するけども。(田舎だと1人行動すると目立つし、しようとも思わなかった)あとあれだ。バイト禁止でお金がなかったから、店があっても安くないと多分行けなかっただろうな。

 

 

一気に書きこんだ。途中で文章を上手く書こうとし始めた自分が気持ち悪い。いつもそうなんだ。少しでもよく見せようとしている自分が嫌なんだ。

よく見せたいから、どういうところを見られてるかわからない人前に1人じゃ気軽に出れなかった。家の中での1人遊びが上手くなってしまった。実際に退屈という感覚はほぼ無いし、外に出るのが億劫なくらいなのだけど、そんな自分がたまに悲しい、虚しい。こんな毎日で何が残るんだろう。最近、とある病気になったという友達の知らせを聞いてひどく動揺した。半月前まで元気な姿を見たのに、一緒に素敵な景色を見たのに、楽しい未来を話し合ったのに。日常が終わる瞬間を体感したような気がした。健康で平和な日々がずっと続く確約なんてない。できるうちにやらなければ、何かしなければ、何かしなければ。何ができるのか。こんな考えがずっと頭の中にぐるぐるとよぎっていて苦しい。自分にその病が降りかかったとき、何を後悔するのか。考えたけれど、ちっとも思いつかないんだ。好きな人といてもひどく動揺したから、純粋に楽しい時間を過ごせなかった気がする。もっと同じ時間をすごしたいと考えると思うけど、どこかで退屈を感じてしまった自分がいる。美化されないような後悔を先回りして実行するにはどうすればいいんだ。全部全部薄っぺらく感じてしまう。無気力な自分がもどかしい。また今日が終わる。ああ、グロいアニメのことなんか調べなきゃ良かったなあ。暗い気持ちを引きずってしまっている。そんなものに影響されないように強く生きたいのに、びっくりするくらい引きずってしまう。正しいものを上手く正しいと言いたいのに、わからない。こんなんじゃ病んでしまうと思うのに、誰かに助けてもらいたいと思うけれど、こんな状況言えるわけない。だって恵まれているもの。贅沢な環境だもの。ズレが生じている。少しの毒を食らった方がきっと幸せを感じると考えてしまう自分は悲観的に物事を見てしまう体質なんだろうなと思う。こんなこと考えてしまうなんて、きっと暇なんだろうな。終わりにする。動き出さなければ。